「われらの北斎!」そう、マティス先輩は後輩のマルケをそう呼んだのです…

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8/30ですね!今日は嵐の松本潤くんがお誕生日ですね。Happy Birthday to MJ !!(*^_^*)♪さて、「Good morning☁︎荒川」の写真撮影してたら、マルケ先生の話を思い出しましたので紹介したいと思います。私は実はこの話が大好きなの!うふふ(*^_^*)♪
「マルケと日本 / 匠 秀夫」より…
装飾美術学校、ついで美術学校と、6歳年長のマティスと共に学んだマルケは早くからこの先輩の感化を受けたが、1892年、ギュスターヴ・モローが美術学校の教授になって、そのアトリエに集まってきた学生には有為の者が多かった。94年のモロー教室では、25歳のマティスが兄貴株で、ルオーとフランドラン23歳、マンギャン20歳、マルケ19歳、カモワン15歳。すでに1901年には、マルケはマティスと共に後にフォーヴィスムと言われるようになる色調と筆触でアンデパンダン展に作品を発表していたから、1905年のサロン・ドートンヌで、やかましい世評を集めたフォーヴ・グループの中でも、首領のマティスに続く存在であったことになろう。周知のように、このグループは1908年前後から、それぞれの個性に適う、独自の道へ進むようになるが、マルケとマティス、マンギャン、カモワンとの交遊は長く続いた…
…省略…
(そして、彼らの若い頃…)この頃、二人は貧乏で、後輩のマルケは特にひどく、マティスから金を借りて急場をしのいだり、カドミュームなどの高い絵の具を買ってもらったりしているし、1895年からマティスはサン-ミッシェル河岸19番地に住んでいたが、マティスのアトリエの窓から描いた殆ど同じ構図の「ノートルダム」1902年 なる作品もあって、両者の血縁関係を偲べよう。1908年、マティスがサン・ジェルマン通りに転居後、マルケがここに越しており、13年に再び戻ってきて、5階に入ると、6階のマルケの部屋の真下であり、一人は床を、一人は天井を叩いて互いに連絡しあったという。マティスとの親縁を書いたのは、マティスがマルケを「我が仲間の北斎」と呼んでいたことを書きたいためである。1943年に、マティスはこう書いている。「北斎を見るとマルケのことを考える。北斎の模倣でないのはわかっている。似ているのだ。」これは、まだ美術学校時代、マルケはマティスとルーヴル美術館に頻繁に通って、シャルダン、ロラン、プサンなどを熱心に模写していた。それを見たモロー先生からマティスは「美術館に行くのを喜んでいるようでは駄目だ。それより、街に下りていって生きてるものを写したらどうだ?」と言われる。傍で聞いていたマルケは「それはそうですが、全ての良い絵はルーヴルの絵に似ています。」と言ったものの、先生の言葉はこたえた。二人は街に下りて行く。ドーミエのように観察し、ドラクロワのように素早く、マルケは一筆描きで動くものの一瞬の姿を描いていった。その厳しさ、鋭さ、躍動感を指してマティスは「われらの北斎」と言ったのである…
(*^_^*)ああ、マルケ先生とマティス先生のなんて素敵な関係なのでしょう‼︎この二人は最高ですね。私は大好きです。きっと、そう、伝説の嵐も、凄い先輩方がいて、素敵な後輩たちがいて、そして嵐さんが存在するのでしょうね。また、新たな伝説をハワイで巻き起こしてくれることでしょう。松本潤くん誕生日おめでとうございます!囍(ダブルハピネス)をあなたに‼︎ハルちゃんより(*^_^*)♡

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